ゆうれい読書通信

幻想文学、ミステリ、SFなど

中野 美代子  カスティリオーネの庭

中野美代子  カスティリオーネの庭



  円明園の西洋庭園にある、十二支像を擁する時計じかけの噴水の裏から白骨死体が発見された。その西洋庭園を設計したのは清の乾隆帝に宮廷画家として仕えるイエズス会の宣教師カスティリオーネ。彼が西洋庭園を完成させるまでの経緯と、乾隆帝の威光の影に潜む皇族の衰勢を描く。
 庭園小説というのでもっと牧歌的なのを想像していたけれど、静かな緊張感の流れる、淡々と辛い物語だった。舞台の円明園は巨大な湖を抱え、かなり湿度の高いところだと思うのだが、乾いた筆致からは砂漠にいるかのような錯覚を少し覚えるくらい。
 カスティリオーネら宣教師たちは宮中に留め置かれ、遠い異国までやってきた本来の目的である布教を思うように果たせず、乾隆帝の機嫌をとるために自らの才覚を費やすほかない。しかしそのうちにも日々は飛び去り、自身は老い、宣教師仲間も老い、あるいは亡くなるものも出てくるが、乾隆帝その人は時の経過を感じさせない(様に描写をあえてしていない気がする)。カスティリオーネの人生も宗教も芸術も最も大切な秘密も、全て超人じみた気まぐれな帝の掌の上なのだ。辛い。彼は最後に密かな反抗を試みるけれど。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス 永遠の歴史


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 永遠の歴史


 時と永遠についての評論と覚書。ボルヘスの諸短編に見られる共通主題についての論考であること、自分の興味範囲と少しテーマがかぶっていたこともあって、今まで読んだボルヘスの中では一番面白かったような気がする。…という割には例によって詳細は忘却の彼方なので、目次をとりあえず並べてみる。永遠の歴史、ケニング、隠喩、循環説、円環的時間、『千夜一夜』の翻訳者たち、覚書二篇(アル・ムウタスィムを求めて、誹謗の手口)。以下それぞれの章の覚書き。


 表題にもなっている「永遠の歴史」は、永遠という言葉の形象の歴史的変革をつづったもの。古代ギリシアプラトン的原型を収蔵する博物館としての永遠、神の属性の一つであり、唯名論的なキリスト教の永遠。
 「ケニング」というのはアイスランド詩の隠喩の技法で、例えば「鳥たちの家」は大気を意味するし、「潮の狼」は船を意味する。こういうケニングを被らないようにたくさん使うことがよい、とされていたそうで、実際使用した詩を見ると謎かけのような不思議な魅力がある。
「隠喩」はそのまま古今東西の典型的な隠喩の引用。死=夢とか、女=花とか。私はつらつらと並べられる引用にへー、とただ感心するだけで終わったが、これほんとに全部正しいのかしらん。
 「循環説」はニーチェ永劫回帰の話から。宇宙に存在する原子は有限なのだから、時間が無限である以上いつかは同じ組み合わせに回帰するという話だが、これに対してカントールの宇宙に存在する点の完全な無限性の主張が持ち出される。そしてニーチェ以前の同様な循環説の紹介など。円環的時間」もやはり永劫回帰の話の続き。
 『千夜一夜』の翻訳者たち、はそのまま千夜一夜の翻訳者三名の翻訳の文体などの比較、「誹謗の手口」もそのまま誹謗の類型をシニカルに論じたもの。「アル・ムウタスィムを求めて」はいかにもボルヘスなフィクション。


 ざっと書き出してみたけど、「文庫版あとがき」で触れられているように、「原型とその反映」(あるいは「一と多」)が共通主題になっている。「ケニング」や「隠喩」は最初毛色が違う章が混ざってるように見えたけれど、俯瞰すると底にある興味の方向は同じなんだなあ。永遠は単に時の集積の延長線上にある何かではないわけで、では空間、事物についてはどうかというと有限と無限、部分と全体がせめぎあい、時空は変奏し循環していく。プラトンの博物館的永遠を貧相といい、様々なヴァリアントを並べて迷宮を作りあげるボルヘスが私は好きです。

ジーン・ウルフ ピース


ジーン・ウルフ ピース



 アメリカの寂れた小さな街に住む老人の回想、という体裁で語られる幻想文学。子供の頃の近所の子供の死、美しい叔母とその求婚者たち、叔母の知人が語る石化する薬剤師の話の思い出、そしてその回想の中にいくつも挿まれる童話、民話などの物語。しかしその美しい物語や回想の中には細部が伏せられているものや結末が明かされないものや正しいかどうか曖昧なものがいりまじり、一番外枠の現実と思しき語り手の現在さえ、色々と疑わしい。静謐な文章で語られる幻想の物語と古きよきアメリカの田舎ののどかな情景にぼんやりひたっているうちに、幾度と無く現れる不穏な死の影に目を覚まされる。疑い出せばきりがない。ウルフだもの。幾つもの解釈が成り立つ作品だが、あえて一つの解釈を選び取らなくてもいいのでは、という解説には共感。なんというか、謎、つまり開かない部屋をそのままに残しておくことで保たれる魅力もある。もちろん作品世界をひたすら掘り下げていくことで分かる魅力もあるし、好き好きだけれど。
 あと、最後がとても好き。おそらく一番希望の持てる解釈を許してくれる。

ヘレン・マクロイ 逃げる幻


ヘレン・マクロイ 逃げる幻




 休暇中にハイランド地方を訪れたダンバー大尉は、理由不明の家出を繰り返す少年について相談を受ける。しかもその少年は荒野の真ん中から突如消え失せたという。大尉は偶然家出しようとしている途中の少年と遭遇するが、その少年は異様におびえていた。その少年を観察しているうちに殺人事件が起きる。ウィリング博士シリーズの本格ミステリ
 この作品最大のポイントはハイランドを舞台にしていること、といっても過言ではないのでは。もともと情景描写が上手い作家という印象はあるけれど、この作品でもハイランドの荒野の空気感を存分に筆をふるって描き出してくれる。荒野の寂寞感と何かにおびえる少年がかもす不穏さ、そして大尉が何らかの密命を帯びているらしいこと、立ち込める霧のような冷たい緊張感がすばらしい。派手な作品ではないけれど一気読みしてしまった。

中村 融編  街角の書店 (18の奇妙な物語)

中村 融編  街角の書店 (18の奇妙な物語)



 ミステリ、SF、怪奇をベースにブラックユーモアを効かせて読後にいわく言いがたい奇妙な味わいを残す「奇妙な味」と呼ばれる類の短篇を集めたアンソロジー。この本は比較的怪奇より。奇妙な味の作品って、そのドライさビターさのおかげでいつ読んでも読みやすいというかニュートラルな状態に戻してくれるので好きです。お口直しにもおすすめ。
 収録作品は有名作家からマイナー作家までとりどりだけど、どの作品もそれぞれにおもしろくいい意味でとても安心して読める。並び順もよくて、最初はアクセルをひたすら踏み込み、あとは緩急ありカーブあり小休憩ありのドライブ、最後の最後で「あちら」に向かってアクセルぶっぱの爽快感。この並び順、解説読むまで気づいてなかったんだけど、実は超自然の要素の具合によってグラデーションになってるんだとか。
 どれも良かったけどお気に入りを挙げるならジョン・アンソニー・ウェスト「肥満翼賛クラブ」、ハーヴィー・ジェイコブズ「おもちゃ」、ロナルド・ダンカン「姉の夫」、ケイト・ウィルヘルム「遭遇」。「遭遇」のSF的解釈って何なのか気になる。


ジョン・アンソニー・ウェスト「肥満翼賛クラブ」
イーヴリン・ウォーディケンズを愛した男」
シャーリイ・ジャクスン「お告げ」
ジャック・ヴァンス「アルフレッドの方舟」
ハーヴィー・ジェイコブズ「おもちゃ」
ミルドレッド・クリンガーマン「赤い心臓と青い薔薇」
ロナルド・ダンカン「姉の夫」
ケイト・ウィルヘルム「遭遇」
カート・クラーク「ナックルズ」
テリー・カー「試金石」
チャド・オリヴァー「お隣の男の子」
フレドリック・ブラウン「古屋敷」
ジョン・スタインベック「M街七番地の出来事」
ロジャー・ゼラズニイ「ボルジアの手」
フリッツ・ライバー「アダムズ氏の邪悪の園」
ハリー・ハリスン「大瀑布」
ブリット・シュヴァイツァー「旅の途中で」
ネルスン・ボンド「街角の書店」

イーヴリン・ウォー ピンフォールドの試練


イーヴリン・ウォー ピンフォールドの試練




 近頃物忘れなどが多くなり様子がおかしい、というので転地療養のため船に乗った小説家ピンフォールド。しかしどうも無線の配線がおかしいらしく、その船のそこかしこで聞こえる声が彼を悩ませる。この船には彼を憎みいたずらを仕掛けているものがいるらしい。大戦中に開発された謎の箱を使い彼を惑わしてくる見えざる敵との戦いが始まる…
 ざくっと紹介すると中年の小説家が船旅で幻聴に惑わされるブラックユーモア小説。しかし、読み始めた時期の個人的心身の調子の悪さもあり、気が狂うことへの恐怖やらピンフォールドの被害妄想っぷりというか自意識過剰っぷりやらが辛くてまさに試練って感じで、一回途中で放棄してしまった。少し余裕がありそうな時期に再開したら話が進むにつれて悪ノリ具合も増しむしろ安心して読めるように。えげつないブラックさではあるけれど、最後は割とあっさり収まるので、まぁユーモア小説の範疇なんだと思います。最初はびびりすぎてた模様。だってウォーって油断してたらぐっさぐっさ刺されそうだし…。身構えるじゃないですか。ユーモア小説だと思いこんで読んだら(私の防御力だと)痛手の一つや二つ負いかねない。今思うとこのへんの緊張感もこの小説の魅力のひとつだったりするのかも。再三書いてる気がするけれど、ウォーのバランス感覚には感心する。素知らぬ顔で読者を振り回し、引くところはあっさり引き、最後にはちゃんとニュートラルに戻す。
 で、作品の結末にちょっと安堵しつつ解説めくったらまた違う試練が始まってた。吉田健一の文章って慣れないと頭くらくらしてくるなぁ。

ジュリアン・グラック アルゴールの城にて / エリック・ファーユ わたしは灯台守

ジュリアン・グラック アルゴールの城にて


 広大な森と海に囲まれたブルターニュの古城で、三人の男女が展開する無言のオペラ劇。饒舌な文章は比喩を重ね、読者を予感と表象の迷宮に落としこむ。なんとまあ濃密な…くらくらする。悪酔いってこんな感じなんだろうか。経験したことないけれど。アルゴールの森の木々は確実にアヘンとかアルコールに類する何かを発散してると思う。
 比喩の奔流による惑わしだけではなく、何か視点に違和感がある、と思ってたけれど解説読んでちょっと納得。夢からの逃走劇、と読むと少ししっくりする。彼らの行動が世界によって定められたものとしか感じられないところだとか、淀んだ時の流れに抗うように打つ時計の音だとか。あと、水平と垂直のイメージの多用が気になった。色々考察したくなる作品だなぁ。



エリック・ファーユ わたしは灯台守


 表題作の中編と8つの短篇、どれも関連はないけれど主題はほぼ共通していて、孤独な人びとの不条理かつ奇妙な話ばかり。ぱっと連想されるのはカフカブッツァーティだけど、それらよりは少し青臭いだろうか。登場人物たちのみじめさと滑稽さ、そしてそう感じる自分への嫌悪感もあり、読後感は苦い…と思いきや妙な清々しさもある。不思議な感じ。彼らの様になりたいわけではないのだが、多分私は彼らがうらやましいんだろう。

 列車が走っている間に 六時十八分の嵐 国境 地獄の入口からの知らせ セイレーンの眠る浜辺 ノスタルジー売り 最後の 越冬館 わたしは灯台守