ゆうれい読書通信

幻想文学、ミステリ、SFなど

J.D.サリンジャー著 村上 春樹訳 キャッチャー・イン・ザ・ライ

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

J.D.サリンジャー著 村上 春樹訳 キャッチャー・イン・ザ・ライ


 十数年振りに訳を変えて再読。春樹訳は大分マイルドで読みやすい感じ。再読といっても細かいことは全然覚えてなかったのでほぼ初読といっていいぐらい。

 青春小説の常として、十代の頃に読んでれば〜という感想をよく見かけるが、個人的には読んだ当時はむちゃくちゃ共感したとかそういう記憶はなかった。まあ私はもともと日和見主義だし、ホールデンの言うインチキ側の人間だという自覚はなくもないので逆に耳が痛い方だったかもしれない。

 むしろホールデンと大分歳が離れた今の方が目線が違うから感じるものが増えた気がする。ホールデンの、大人になりたいけどなりたくない、子どもと大人、自分と他者の境界線上でバランスを崩して今にも転落しそうな危うさ、インチキに反発しながら彼自身純真な子どものままではいられない矛盾。大人になるということは、子ども時代の全能感、自分の閉じていた天動説的な世界を崩し、他者(とその世界)を受け入れ尊重することを求められるということだけど、ホールデンはその過程で大分混乱してしまっている。多分ロールモデルが見つからないのだ。一方で、終わりつつある子どもの世界、ライ麦畑は美しい。ライ麦畑で捕まえたい、捕まえてほしいのは彼自身のことでもあるだろう。その混乱の原因は、彼がインチキ=表面的にではなく本心から誰かと繋がりたい、受け入れたい、受け入れられたいという望みを持っているからこそではあるのだけれども。

 でも、終盤フィービーに一緒に連れてってと懇願された時、彼もやはり大人側の対応を取らざるを得ない。子ども時代は否応なしにいつかは終わる、ライ麦畑からいつかは落ちる時が来る。しかし落ちたらそれで終わりというわけじゃなく、拾ってくれる人は恐らくいるのだし、その可能性は何度も示唆されている。そしてホールデンも少なくともこの語りの時点では生き延びた。そう思うと、彼の語りは痛快なところもある半面なかなか苛だたしいところもあるのだが、最後にはちょっと愛おしい気持ちになる。私も歳をとったなあ。