ゆうれい読書通信

幻想文学、ミステリ、SFなど

ウィリアム・アレグザンダー 仮面の街


ウィリアム・アレグザンダー 仮面の街


 魔女グラバの家で暮らしていた少年ロウニーはある日、街で禁止されている芝居を上演するゴブリンの一座に出会う。どうも彼らはロウニーの行方不明の兄のことを知っているらしい。一座に加わり魔女グラバから逃げまわるうちに、ロウニーは芝居に使われる仮面と街の秘密を知っていく。
 機械仕掛と魔法が混在する、スチームパンクな風味も感じるファンタジー。語り口は児童文学だけれど説明し過ぎないし、死の影がちらりとのぞくところ、物語の中心となる謎に文化人類学的なものがからんでいるところなど、大人になってから読んでも読み応えがあると思う。物語の鍵となるのは仮面、その魅惑と怖さが上手く織り交ぜられているなあ。舞台となるゾンベイ市も、雑然とした路地や巨大な橋とその上の時計塔、地下の駅に港と、どれも魅力的に描写されていて楽しい。表紙買いなのですがとてもよかった。完全には解決してない謎もある感じですが、それは姉妹編を読めばいいのかな。

ルーシー・M・ボストン 海のたまご


ルーシー・M・ボストン 海のたまご




 夏休み、コーンウォールの海辺にやってきたトビーとジョーの兄弟は、浜の漁師から不思議な石の卵を手に入れる。その卵を秘密のプールに入れておいた二人は、やがて子供のトリトンと出会い、交流を深めていく。
 児童文学というよりは散文詩のような、とても長い絵本のような。ストーリーよりも表現が主役の作品。海の見せる美しさ、親密さ、神秘、激情が五感を使って描写される。海はそこにあるだけでなんと素晴らしいことか。あまり海を目にする機会がない自分は水平線を見るだけでも何だかどきどきするんだけれど、そんな高揚を思い出させてくれる。とりわけクライマックスのアザラシ達の不思議な集会のシーンは美しいです。挿絵の版画や章の頭のうずまき貝のイラストも素敵。海が好きな人はぜひ。

ミヒャエル・エンデ 自由の牢獄 (とマグリット展)

ミヒャエル・エンデ 自由の牢獄



 この前マグリット展を見に行って、今更ながらマグリットはとてもいいなあと思ったのと同時に、エンデの短編集「自由の牢獄」を連想した。そもそも私がシュルレアリスムを勉強したいと思っている(しているとは言ってない)のはミヒャエル・エンデが原因だったりする。エンデの作品とシュルレアリスムとは切り離せない関係にあるようなので。マグリット展を見に行った時も頭の片隅にエンデのことがあったせいで、「自由の入り口で」と題された絵を見た時、エンデの短編集「自由の牢獄」のうちの一話「ミスライムのカタコンベ」をぱっと思い出した。
 「自由の入り口で」はマグリットがよく使うモチーフの絵で三方の壁ができており、前方の壁に向かって大砲が置かれている。「ミスライムのカタコンベ」は閉じたカタコンベ内のディストピアじみた社会の中で、「外」のヴィジョンをかすかに持っている主人公が「外」への脱出を図ろうとする話。閉じた世界を壊す、という共通点はもちろん、両作品の「外」も同じ意味を持っている気がした。
 マグリットの外について。マグリット展を見ていて思ったのは、額縁であったり窓であったり開口部であったり、彼の作品には枠がたくさん出てくるということ。枠のこちら側はどこか薄暗い不気味な部屋であることが多く、逆に枠の向こう側には広々とした、一種の崇高さを感じさせる世界が広がっている。展示されていたコメントからしても、単純に捉えるとこれは自我の枠なのだと思われる。私というせまい枠からしか世界に触れられないもどかしさ。以前ほんのちょっぴりシュルレアリスムに触れた時の話からしても、シュルレアリスムは自我を超えた世界を見出そうとしている感じだったので。
 エンデの外は、ちょっと矛盾する言い方になるけど、この物質的世界に内在する精神世界、意味の世界と捉えられる。モモがマイスター・ホラの館で聴く天上の音楽であり、はてしない物語の生命の水の源泉であり、「私」が世界とのつながりを見出す源。一が全に回帰し、全が一を生み出す故郷だ。もっともミスライムのカタコンベの「外」には直接的にはそんな描写はないが、作品内での「外」がカタコンベ内の壁に絵として描かれることからして、そういう意味を持っている可能性は高いと思う。エンデにとって絵はこちら(物質世界)とあちら(意味世界)をつなぐ窓であるらしいので。ミンロウド坑の絵とか。自由の牢獄の最後の話「道しるべの伝説」の主人公ヒエロニムスの見出す、超自然的な門の向こうの「故郷」は確実にこれに該当する。
 つまりどちらの外も「私」を超えた、私が私の殻を失い全に溶ける、そういう世界なんだと思う。全き世界への憧憬(と幾ばくかのためらい)。ただ同時に、マグリットの絵(シュルレアリスムの絵)は見るものを私という個に強く立ち返らせるものでもある。「これは誰それの肖像画だ」「これは美しい風景を描いている」といった常識的文脈の見いだせない作品に触れた時、人はそれぞれ自分に即した文脈を(無自覚に)作り上げようとする。それが無意識に訴えかけるものならなおさら、作品と私はプライベートな、二重の意味で他者とは共有することのできない秘密の関係を結ぶことになり、その甘美さは子供時代への郷愁を誘う。それがシュルレアリスム作品を見た時に感じる、世界が今私一人に秘密を打ち明けようとしている、という甘い懐かしい感覚のもとなんじゃないだろうか。
 自由の牢獄の最初の話、「遠い旅路の目的地」の主人公シリルは故郷を知らず、世界と自分とがつながっているという秘密をどこにも見いだせないまま生きてきたけれど、とある不思議な光景を描いた絵を見てそこが自らの故郷だと確信し、実際にその場所を探し求める。彼はこの、世界と私のプライベートな秘密そのものに固執した。「道しるべの伝説」のヒエロニムスが故郷とするのが世界のつながりの源泉で、おまけにその故郷、もうひとつの世界への道を共有しようとしたのとは対照的に。ただ、この最初と最後の二話は同様の構造を持つと同時に対照的で、最初の話の発展形が最後の話とも取れる構造をしているけれど、私は前者の方につい共感してしまう。個人的には話としても前者の方がおもしろいと思うし。エンデには珍しく善人じゃない主人公だけど、作者の共感も感じられないわけではないような気がする。結局シリルはどこまでも自分の殻を崩すことはなく、世界とのつながりを見出しはしたもののおそらく永遠に世界に回帰することはないけれど、あの宙ぶらりんな結末は彼の生き方を否定するものには思えない。まあ自分自身、自我の殻を時々壊してしまいたいと思いつつ現実にはひたすら塗り固めている現況なので、シリルの結末だって悪くないじゃないか、と思いたいんだなあ。
 長々と書いたけど、ひたすら当たり前のことを書いているだけのような気もするし見当違いのことを書いている気もするという。エンデでシュルレアリスムといえば鏡のなかの鏡だけど、こちらもそのうち(自分の中での)決着をつけたいな。

池澤 夏樹 ハワイイ紀行 / 大竹 伸朗 カスバの男―モロッコ旅日記

池澤夏樹 ハワイイ紀行


 ハワイの歴史、食べ物、言語、サーフィンなど幅広く取り扱っていて、ちょっと教科書に掲載されてそうな雰囲気ではあるけれど、ハワイは美しいだけの島ではなく戦いの歴史(と現在)を持っていることを思い出させてくれる。
 波にのる楽しさ喜びを書き綴ったサーフィンの章が好きです。あと、昔ながらの天体観測による航法の章もかっこよかった。




大竹伸朗 カスバの男―モロッコ旅日記


 本屋でぱらっと中を見て目に入った絵がライナーの様にすこーんと飛び込んでくる感じだったので購入。単純な線と色で描かれてるのに脳内で光と空間が広がる感じ。文章も同様に、かなり感覚的で不思議な文体だけれど、脳内でぶわっと膨らむんですよね。面白いなあ。モロッコの気怠さ、猥雑さ、渦巻き流れるエネルギーを脳内体感するにはぴったり。
 筆者の本ははじめてだと思ってたけど絵本の『ジャリおじさん』の作者なんですね。うわあ懐かしい。

中野 美代子  カスティリオーネの庭

中野美代子  カスティリオーネの庭



  円明園の西洋庭園にある、十二支像を擁する時計じかけの噴水の裏から白骨死体が発見された。その西洋庭園を設計したのは清の乾隆帝に宮廷画家として仕えるイエズス会の宣教師カスティリオーネ。彼が西洋庭園を完成させるまでの経緯と、乾隆帝の威光の影に潜む皇族の衰勢を描く。
 庭園小説というのでもっと牧歌的なのを想像していたけれど、静かな緊張感の流れる、淡々と辛い物語だった。舞台の円明園は巨大な湖を抱え、かなり湿度の高いところだと思うのだが、乾いた筆致からは砂漠にいるかのような錯覚を少し覚えるくらい。
 カスティリオーネら宣教師たちは宮中に留め置かれ、遠い異国までやってきた本来の目的である布教を思うように果たせず、乾隆帝の機嫌をとるために自らの才覚を費やすほかない。しかしそのうちにも日々は飛び去り、自身は老い、宣教師仲間も老い、あるいは亡くなるものも出てくるが、乾隆帝その人は時の経過を感じさせない(様に描写をあえてしていない気がする)。カスティリオーネの人生も宗教も芸術も最も大切な秘密も、全て超人じみた気まぐれな帝の掌の上なのだ。辛い。彼は最後に密かな反抗を試みるけれど。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス 永遠の歴史


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 永遠の歴史


 時と永遠についての評論と覚書。ボルヘスの諸短編に見られる共通主題についての論考であること、自分の興味範囲と少しテーマがかぶっていたこともあって、今まで読んだボルヘスの中では一番面白かったような気がする。…という割には例によって詳細は忘却の彼方なので、目次をとりあえず並べてみる。永遠の歴史、ケニング、隠喩、循環説、円環的時間、『千夜一夜』の翻訳者たち、覚書二篇(アル・ムウタスィムを求めて、誹謗の手口)。以下それぞれの章の覚書き。


 表題にもなっている「永遠の歴史」は、永遠という言葉の形象の歴史的変革をつづったもの。古代ギリシアプラトン的原型を収蔵する博物館としての永遠、神の属性の一つであり、唯名論的なキリスト教の永遠。
 「ケニング」というのはアイスランド詩の隠喩の技法で、例えば「鳥たちの家」は大気を意味するし、「潮の狼」は船を意味する。こういうケニングを被らないようにたくさん使うことがよい、とされていたそうで、実際使用した詩を見ると謎かけのような不思議な魅力がある。
「隠喩」はそのまま古今東西の典型的な隠喩の引用。死=夢とか、女=花とか。私はつらつらと並べられる引用にへー、とただ感心するだけで終わったが、これほんとに全部正しいのかしらん。
 「循環説」はニーチェ永劫回帰の話から。宇宙に存在する原子は有限なのだから、時間が無限である以上いつかは同じ組み合わせに回帰するという話だが、これに対してカントールの宇宙に存在する点の完全な無限性の主張が持ち出される。そしてニーチェ以前の同様な循環説の紹介など。円環的時間」もやはり永劫回帰の話の続き。
 『千夜一夜』の翻訳者たち、はそのまま千夜一夜の翻訳者三名の翻訳の文体などの比較、「誹謗の手口」もそのまま誹謗の類型をシニカルに論じたもの。「アル・ムウタスィムを求めて」はいかにもボルヘスなフィクション。


 ざっと書き出してみたけど、「文庫版あとがき」で触れられているように、「原型とその反映」(あるいは「一と多」)が共通主題になっている。「ケニング」や「隠喩」は最初毛色が違う章が混ざってるように見えたけれど、俯瞰すると底にある興味の方向は同じなんだなあ。永遠は単に時の集積の延長線上にある何かではないわけで、では空間、事物についてはどうかというと有限と無限、部分と全体がせめぎあい、時空は変奏し循環していく。プラトンの博物館的永遠を貧相といい、様々なヴァリアントを並べて迷宮を作りあげるボルヘスが私は好きです。

ジーン・ウルフ ピース


ジーン・ウルフ ピース



 アメリカの寂れた小さな街に住む老人の回想、という体裁で語られる幻想文学。子供の頃の近所の子供の死、美しい叔母とその求婚者たち、叔母の知人が語る石化する薬剤師の話の思い出、そしてその回想の中にいくつも挿まれる童話、民話などの物語。しかしその美しい物語や回想の中には細部が伏せられているものや結末が明かされないものや正しいかどうか曖昧なものがいりまじり、一番外枠の現実と思しき語り手の現在さえ、色々と疑わしい。静謐な文章で語られる幻想の物語と古きよきアメリカの田舎ののどかな情景にぼんやりひたっているうちに、幾度と無く現れる不穏な死の影に目を覚まされる。疑い出せばきりがない。ウルフだもの。幾つもの解釈が成り立つ作品だが、あえて一つの解釈を選び取らなくてもいいのでは、という解説には共感。なんというか、謎、つまり開かない部屋をそのままに残しておくことで保たれる魅力もある。もちろん作品世界をひたすら掘り下げていくことで分かる魅力もあるし、好き好きだけれど。
 あと、最後がとても好き。おそらく一番希望の持てる解釈を許してくれる。