ゆうれい読書通信

幻想文学、ミステリ、SFなど

2015年ベスト10冊(後半)

2015年ベスト10冊後半です。読んだ順。
前半:2015年ベスト10冊(前半) - ゆうれい読書通信




6 V・S・ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」

 幻肢痛からはじまり、様々な奇妙な症例から探る脳の不思議について。ずーっと読みたい本リストに突っ込んではいたのですがブラインド・サイトを読んでからようやく手を付ける気になりました。読んでよかった。私はついつい身体二元論で考えがちなんですが、実際私ってどこにいるのか何なのか、当然体から切り離して考えられるわけはないのだし、そもそも私ってのは絶対支配者なわけじゃないんだよなあと。


7 レイモンド・カーヴァー「ウルトラマリン」

 今年も何回か詩集に挑戦しては敗退し、というのをやりましたがこれはなんだか馴染んだので。形式的にも散文に近いですし。ちょっと落ちてる時期に読んだので余計しみたのかもしれません。絶望の合間の、永遠のようでいてつかの間の平穏がさあっと通り過ぎていく、それだけで何か満たされるような。


8 ルーシー・M・ボストン「海のたまご」

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 コーンウォールの海辺での夏休み、不思議なたまごを見つけた兄弟と海の交流。とにかく海の描写がいいので。ごくごくと読んじゃう。コーンウォール、検索するとビーチも多いみたいだし紺碧の海なんですよね。いいなあ。


9 スティーブン・ミルハウザーエドウィン・マルハウス」

 夭逝した天才少年作家の、その親友による伝記という形式の小説。ミルハウザーってこんな作品も書いてたんだと少し驚きました。美しいことは美しいんですが空恐ろしい鮮やかさで再現される子供時代。あと子供の奇っ怪な行動をよく捉えているというか覚えているなあと。彼らがまだ箍をはめようとしていない、極端に跳ねまわる心の動きと目眩く色と光が合わさり、ヴィヴィッドというよりニューロティックな色彩の世界が口を開けて待っています。


10 イアン・マクドナルドサイバラバード・デイズ」

 インドを舞台にした、人とジンとAIのSF連作短編集。最初は身近な、少年時代の憧れへの幻滅の話から始まるのですが、ぐんぐんとSFアクセルが踏み込まれ、最後には神話的壮大さを帯びてきます。雰囲気やテーマはぜんぜん違うのですがちょっとキース・ロバーツのパヴァーヌに似てるところを感じなくもないですね。ガジェットを盛り込み話を転がしていく上手さはさすが火星夜想曲の作者。

2015年ベスト10冊(前半)

 あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いいたします。去年は随分記事数が少なくなってしまったので今年はもうちょっと頑張りたい所存です。
 さて、2015に読んだ本の中から10冊、読んだ順での紹介です。まず前半。



1 エリザベス・ボウエン「ボウエン幻想短編集」

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 このごろ集中力の低下か本にのめりこむ、ということが少なくなったのですが、この本にはかなり入り込んだ気がします。幻想短編集とうたっていますが幻想以外の描写も魅力的なので幻想好きの方にもそれ以外の方にも。にじみ漏れる意識・無意識のエーテルに浸された世界は危うくも心惹かれます。


2 ジュリアン・グラック「アルゴールの城にて」

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 ブルターニュの森と海と古城を舞台に、筋書きとしては三人の男女の恋愛劇が展開される話なのですが、なにせ登場人物の会話は一切描かれないし恋といってもかなり宗教的な感情のように思われます。比喩を重ねた静かだけれどもとどまることを知らない文章は作品世界を表象と予感で塗り尽くし、読んでるこちらも作品世界の中に塗り込められてしまったかのような息苦しさと陶酔を覚えるほど。礼拝堂のシーンの美しさは類を見ないです。


3 ボルヘス「永遠の歴史」

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 ボルヘスってマッチョな面もあるし今まで好き!ってほどではなかったんですが、これはおもしろかったのと同時にちょっとボルヘスへの好感度が上がった本。時と永遠についての評論集のようなものですが、「原型とその反映」が共通主題で、ボルヘスの世界観というか創作への態度がすけて見えるように思います。


4 ジーン・ウルフ「ピース」

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 ジーン・ウルフの書く幻想文学ケルベロスやデス博士の様な華々しさではないですが、じんわり飲み込まれていく恐怖、作品のタイプとしては個人的にはこっちの方が好みですね。終始薄明かりの中にいるような。終わり方がとても好き。


5 フラン・オブライエン「スウィム・トゥー・バーズにて」

 まだ感想書いてなかったんですがおもしろかったです。作家の主人公が書いた小説の主人公がまた作家で、彼が作品の中でつくりだした登場人物たちが自分の意志で行動をはじめて…というメタな作品。この入れ子構造の中で、アイロニーと背中合わせのユーモア、俗っぽさと時折覗く哀愁、アイルランドの神話・民話のエピソードが、酔ったようなしかし生気のあるリズムで煮詰められていく豊穣さ。

ブライアン・エヴンソン 遁走状態


ブライアン・エヴンソン 遁走状態



 小さなつまづきから自我も体も世界もぼろぼろと崩れていく恐怖と魅惑に引きずり込まれる不条理ホラー短編集。姉妹で経験した出来事を上手く姉と共有できないまますれ違い続ける妹、前妻たちに追われ続ける男、舌が意思に反する単語をしゃべるようになった大学教授…。作中人物達が崩壊しながらも世界を手さぐりで取り戻そうとするその様子は切ないと同時にこっけいでもある。はじめはなにこれ辛い、と思いながら読んでたはずが、段々慣れてくるとむしろコメディ面が目につくようになってくる。彼らの世界はすでに残酷で不可解なものでしかないんだけれど、彼ら自身にはどこか子供みたいに楽天的で人懐いところがあるせいか、突き放されそうで突き放されない不思議な引力を持つ作品。グロいのはグロいけど私でも一応読める(ただし一部は斜め読みした)範囲だし初期作品に比べると暴力の描写は大分控えめになってるんだとか。しかし一体初期はどんなんだったんだ…。
 好きな話は残酷さとユーモアがひときわ際立つ「マダー・タング」、キャラ設定が色々と秀逸な「九十に九十」、表題作の「遁走状態」。

ウィリアム・アレグザンダー 仮面の街


ウィリアム・アレグザンダー 仮面の街


 魔女グラバの家で暮らしていた少年ロウニーはある日、街で禁止されている芝居を上演するゴブリンの一座に出会う。どうも彼らはロウニーの行方不明の兄のことを知っているらしい。一座に加わり魔女グラバから逃げまわるうちに、ロウニーは芝居に使われる仮面と街の秘密を知っていく。
 機械仕掛と魔法が混在する、スチームパンクな風味も感じるファンタジー。語り口は児童文学だけれど説明し過ぎないし、死の影がちらりとのぞくところ、物語の中心となる謎に文化人類学的なものがからんでいるところなど、大人になってから読んでも読み応えがあると思う。物語の鍵となるのは仮面、その魅惑と怖さが上手く織り交ぜられているなあ。舞台となるゾンベイ市も、雑然とした路地や巨大な橋とその上の時計塔、地下の駅に港と、どれも魅力的に描写されていて楽しい。表紙買いなのですがとてもよかった。完全には解決してない謎もある感じですが、それは姉妹編を読めばいいのかな。

ルーシー・M・ボストン 海のたまご


ルーシー・M・ボストン 海のたまご




 夏休み、コーンウォールの海辺にやってきたトビーとジョーの兄弟は、浜の漁師から不思議な石の卵を手に入れる。その卵を秘密のプールに入れておいた二人は、やがて子供のトリトンと出会い、交流を深めていく。
 児童文学というよりは散文詩のような、とても長い絵本のような。ストーリーよりも表現が主役の作品。海の見せる美しさ、親密さ、神秘、激情が五感を使って描写される。海はそこにあるだけでなんと素晴らしいことか。あまり海を目にする機会がない自分は水平線を見るだけでも何だかどきどきするんだけれど、そんな高揚を思い出させてくれる。とりわけクライマックスのアザラシ達の不思議な集会のシーンは美しいです。挿絵の版画や章の頭のうずまき貝のイラストも素敵。海が好きな人はぜひ。

ミヒャエル・エンデ 自由の牢獄 (とマグリット展)

ミヒャエル・エンデ 自由の牢獄



 この前マグリット展を見に行って、今更ながらマグリットはとてもいいなあと思ったのと同時に、エンデの短編集「自由の牢獄」を連想した。そもそも私がシュルレアリスムを勉強したいと思っている(しているとは言ってない)のはミヒャエル・エンデが原因だったりする。エンデの作品とシュルレアリスムとは切り離せない関係にあるようなので。マグリット展を見に行った時も頭の片隅にエンデのことがあったせいで、「自由の入り口で」と題された絵を見た時、エンデの短編集「自由の牢獄」のうちの一話「ミスライムのカタコンベ」をぱっと思い出した。
 「自由の入り口で」はマグリットがよく使うモチーフの絵で三方の壁ができており、前方の壁に向かって大砲が置かれている。「ミスライムのカタコンベ」は閉じたカタコンベ内のディストピアじみた社会の中で、「外」のヴィジョンをかすかに持っている主人公が「外」への脱出を図ろうとする話。閉じた世界を壊す、という共通点はもちろん、両作品の「外」も同じ意味を持っている気がした。
 マグリットの外について。マグリット展を見ていて思ったのは、額縁であったり窓であったり開口部であったり、彼の作品には枠がたくさん出てくるということ。枠のこちら側はどこか薄暗い不気味な部屋であることが多く、逆に枠の向こう側には広々とした、一種の崇高さを感じさせる世界が広がっている。展示されていたコメントからしても、単純に捉えるとこれは自我の枠なのだと思われる。私というせまい枠からしか世界に触れられないもどかしさ。以前ほんのちょっぴりシュルレアリスムに触れた時の話からしても、シュルレアリスムは自我を超えた世界を見出そうとしている感じだったので。
 エンデの外は、ちょっと矛盾する言い方になるけど、この物質的世界に内在する精神世界、意味の世界と捉えられる。モモがマイスター・ホラの館で聴く天上の音楽であり、はてしない物語の生命の水の源泉であり、「私」が世界とのつながりを見出す源。一が全に回帰し、全が一を生み出す故郷だ。もっともミスライムのカタコンベの「外」には直接的にはそんな描写はないが、作品内での「外」がカタコンベ内の壁に絵として描かれることからして、そういう意味を持っている可能性は高いと思う。エンデにとって絵はこちら(物質世界)とあちら(意味世界)をつなぐ窓であるらしいので。ミンロウド坑の絵とか。自由の牢獄の最後の話「道しるべの伝説」の主人公ヒエロニムスの見出す、超自然的な門の向こうの「故郷」は確実にこれに該当する。
 つまりどちらの外も「私」を超えた、私が私の殻を失い全に溶ける、そういう世界なんだと思う。全き世界への憧憬(と幾ばくかのためらい)。ただ同時に、マグリットの絵(シュルレアリスムの絵)は見るものを私という個に強く立ち返らせるものでもある。「これは誰それの肖像画だ」「これは美しい風景を描いている」といった常識的文脈の見いだせない作品に触れた時、人はそれぞれ自分に即した文脈を(無自覚に)作り上げようとする。それが無意識に訴えかけるものならなおさら、作品と私はプライベートな、二重の意味で他者とは共有することのできない秘密の関係を結ぶことになり、その甘美さは子供時代への郷愁を誘う。それがシュルレアリスム作品を見た時に感じる、世界が今私一人に秘密を打ち明けようとしている、という甘い懐かしい感覚のもとなんじゃないだろうか。
 自由の牢獄の最初の話、「遠い旅路の目的地」の主人公シリルは故郷を知らず、世界と自分とがつながっているという秘密をどこにも見いだせないまま生きてきたけれど、とある不思議な光景を描いた絵を見てそこが自らの故郷だと確信し、実際にその場所を探し求める。彼はこの、世界と私のプライベートな秘密そのものに固執した。「道しるべの伝説」のヒエロニムスが故郷とするのが世界のつながりの源泉で、おまけにその故郷、もうひとつの世界への道を共有しようとしたのとは対照的に。ただ、この最初と最後の二話は同様の構造を持つと同時に対照的で、最初の話の発展形が最後の話とも取れる構造をしているけれど、私は前者の方につい共感してしまう。個人的には話としても前者の方がおもしろいと思うし。エンデには珍しく善人じゃない主人公だけど、作者の共感も感じられないわけではないような気がする。結局シリルはどこまでも自分の殻を崩すことはなく、世界とのつながりを見出しはしたもののおそらく永遠に世界に回帰することはないけれど、あの宙ぶらりんな結末は彼の生き方を否定するものには思えない。まあ自分自身、自我の殻を時々壊してしまいたいと思いつつ現実にはひたすら塗り固めている現況なので、シリルの結末だって悪くないじゃないか、と思いたいんだなあ。
 長々と書いたけど、ひたすら当たり前のことを書いているだけのような気もするし見当違いのことを書いている気もするという。エンデでシュルレアリスムといえば鏡のなかの鏡だけど、こちらもそのうち(自分の中での)決着をつけたいな。

池澤 夏樹 ハワイイ紀行 / 大竹 伸朗 カスバの男―モロッコ旅日記

池澤夏樹 ハワイイ紀行


 ハワイの歴史、食べ物、言語、サーフィンなど幅広く取り扱っていて、ちょっと教科書に掲載されてそうな雰囲気ではあるけれど、ハワイは美しいだけの島ではなく戦いの歴史(と現在)を持っていることを思い出させてくれる。
 波にのる楽しさ喜びを書き綴ったサーフィンの章が好きです。あと、昔ながらの天体観測による航法の章もかっこよかった。




大竹伸朗 カスバの男―モロッコ旅日記


 本屋でぱらっと中を見て目に入った絵がライナーの様にすこーんと飛び込んでくる感じだったので購入。単純な線と色で描かれてるのに脳内で光と空間が広がる感じ。文章も同様に、かなり感覚的で不思議な文体だけれど、脳内でぶわっと膨らむんですよね。面白いなあ。モロッコの気怠さ、猥雑さ、渦巻き流れるエネルギーを脳内体感するにはぴったり。
 筆者の本ははじめてだと思ってたけど絵本の『ジャリおじさん』の作者なんですね。うわあ懐かしい。